滞在ノート
ブカレストで気になったことなど・・・。(準備中)
ルーマニアの近代史
ブ カレストの発祥は14世紀に遡るとされていますが、その名が歴史上初めて登場したのは、1459年ヴラド・ツェペシュ公(ドラキュラのモデルといわれる)の署名した文書です。当時ブカレスト周辺地帯はワラキア公国と称されていましたが、15世紀初頭から約400年間はオスマン・トルコの間接統治下に置かれていた。1642年に冬の離宮が建てられて以来ブカレストは徐々に発展し、1659年にワラキアの首都となり、1859年にワラキア公国が隣国のモルドヴァ公国と統一したのに伴い、近代法政が整備されブカレストも近代都市として整備が進んだ。
1877年、ドイツのホーエンツォレルン家より迎えられたカロル公がロシアと共にオスマン・トルコと戦って勝利を収めたことにより、ルーマニアは公式にオスマン・ トルコの保護領でなくなった。1881年ルーマニアは公国から王国への格上げを宣言し、ブカレストはルーマニア王国の首都となった。
第一次世界大戦
(準備中)
第二次世界大戦ではルーマニアは枢軸国側であったが、戦争末期には同政府はクーデターで倒れ、新政府は直ちに連合軍側について対独宣戦を布告した。
戦後とチャウシェスク独裁
共産党が政権を獲得し、1965年ゲオルゲ・ゲオルギュウ・デジの死とともに書記長となったチャウシェスクが党内を完全に掌握し、1974年には大統領制を敷き次第に独裁色、個人崇拝的傾向を強め、25年の長きに亘りその政権を維持し続けた。晩年チャウシェスクはメガロマニアとも言われる、運河、新宮殿等、巨大建設計画を次々に実行し、華やかだったと言われる王政時代のブカレストの面影の多くが破壊された。
民主革命
オイル・ショックに伴う極端な飢餓輸出政策と国内締め付け政策に国民の不満が限界に達した状況が続き、ベルリンの壁崩壊にはじまる民主化の並がルーマニアへも押し寄せた。1989年12月16日、ティミショアラで発生した反体制デモを契機に同22日、ブカレスト市内革命広場において大規模な反体制デモが行われ、ついにチャウシェスク政権を打倒しました。
民主革命後
イリエスク前大統領を中心とする救国戦線政権が樹立された後、1996年中道右派民主コンベンションのエミル・コンスタンティネスク政権が誕生、2000年の総選挙では再び社会民主主義党のイリエスクが政権に返り咲いた。2004年の総選挙では同盟候補のバセスク大統領が選出されたこともあり、同盟中心の組閣が行われ、タリチャーヌ首相を首班とする新政権が成立し、4年ぶりの政権交替となりました。
近年は西側諸国や近隣のトルコ、ギリシャ資本からの投資が促進され、新たな商業施設、レストラン、ホテル等が次々にオープンしている。2007年1月1日、ルーマニアはブルガリアとともにEUへ加盟した。
詳細は「ルーマニア史(ジョルジョ・カステランGeorges Castellan著)」を参照。
チャウセスク政権
準備中
ブカレスト大改造
チャウセスクは1971年に北朝鮮の平壌と中国の北京を訪問し、その都市計画に影響されブカレストを誇大妄想的な社会主義的計画都市へ改造していった。かつては東欧の「プチ・パリ」と呼ばれたブカレストだが、スピーレア教会、コトロチェニ修道院など中世から残る古い教会を含む多くの歴史的建造物を破壊し、無機質な社会主義的計画都市に代えていった。特に市民センターや議会宮殿、ウニリ大通り等にそれが顕著に現れている。それでもいくつか歴史的な地区は残っている。
ルーマニアと中国の関係
準備中
ルーマニア製乗用車ダチア
準備中
ドラキュラ伯爵
準備中
カレル2世の駆け落ち
準備中
ナディア・コマネチ
モントリオールオリンピックで10点満点を出し、金メダルを獲得した・・・
準備中
杉原千畝とルーマニア
準備中
ジプシー(ロマ)
準備中
トランシルバニア地方
準備中
モルドバとモルダビア地方
準備中
アパートの販売価格
1999年当時、市の北部で1LDK(40-50sqm)のアパートが250-300万円程度で販売されていた。これなら買えるのではと考えさせられる価格帯であり、真剣に検討したが購入には至らなかった。
ドナウデルタ
「バルカンの亡霊たち(ロバート D.カプラン著)」にドナウデルタの件があったので知ることとなったが、ブルガリアとルーマニア国境を流れるドナウ川は黒海へ注ぐ間際にSilistra (Bulgaria)付近から一気にウクライナ国境付近のGalatiまで北上し、進路を東に変えTulcea付近からデルタを形成し黒海へ向かう。自然の宝庫であることは言うまでもない。ドナウデルタの入り口はTulceaとなり。
http://www.romaniatourism.com/danube-delta.html
Sony Digital Mavica MVC-FD51
このとき、ソニーのデジタルカメラ、Sony Digital Mavica MVC-FD51(1998年中旬ン発売)という3.5インチのフロッピーディスクを記憶メディアとする、今から考えればかなりでかいカメラ、を携行した。解像度は0.3メガピクセル、画像は640X480だった。ホテルとアパートはこのカメラの画像、当時としてはまあまあだった、フロッピーディスクに記憶する方式やバッテリーが充電式と使い勝手が良かった。
Sony Digital Mavica MVC-FD51
1/4-inch 640 x 480 pixel CCD. ISO 100. F/2 47mm autofocus lens. Shutter 1/60 to 1/2000 second. Floppy disk camera.
革命広場 (Piata Revolutiei)
1989年12月21日、チャウシェスク大統領が共産党本部バルコニーで演説途中、この広場に集められた市民の罵声を浴び、翌22日に屋上からヘリコプターで脱出したシーンは世界中に放映された。市民側に立ったルーマニア国軍と旧秘密警察(セクリターテ)の戦いが最も激しかったのはこの一帯である。
この広場を取り囲んで建っているのが旧ルーマニア共産党本部、旧共和国宮殿、大学図書館、アテネ音楽堂、ヒルトン・ホテルです。旧共産党本部は現在上院の議場となっている。
大学広場 (Piata Universitatii)
インターコンチネンタルホテルの前の広場。革命時にはここで最初の犠牲者が出ました。現在は革命時の痕を残すものはほとんどないが、革命犠牲者の慰霊塔である十字架が建てられている。
議会宮殿(Palatul Parlamentului)
チャウシェスク大統領が権力を誇示するため巨額の費用と膨大な労働力を投入し1983年に着工した。その際、住民の強制的な撤去や歴史的な建造物、古い教会を破壊を行ない、西側諸国から強い非難を浴びた。地上12階、地下4階の建物は大理石やマホガニーをふんだんに利用したこの豪華絢爛な宮殿は当時「共和国の館」と呼ばれた。地上部分の床面積(330,000平方 メートル)が米国防省(ペンタゴン)に次いで世界第2位の巨大建造物である。(現在もそうかどうかは不明)
1989年の革命により建設途中で放置され、現在は下院議院の他、最大7カ国の同時通訳設備を持つ会議場、コンサートホール、展示場、宴会場として利用されている。一部は一般公開され最近には宮殿内に現代美術館もオープンした。宮殿正面から東に伸びる大通りは「統一大通り」と呼ばれ、この通りの両側のアパート群には共産党員や官僚が入居する予定だった。その一つに一時間借りして住んでいた。
開館時間10:00-16:00 ☎311-3611 見学はガイドツアーのみ。英語有。
農村博物館(Muzeul Satului)
ルーマニア各地方の民家、教会、水車など約300棟を一度解体してブカレストに運び、組み立てて展示している野外博物館である。民家内部にはそれぞれの地方色豊かな家具、食器、民芸美術品が展示されている。見逃せない建築は、1875年ゴルジェ建築様式で建てられたチェアウル(Ceauru)の家、1820年代のオアシュ(Oas)地方の典型的な民家、モセイニ(Moseini)の家、1727年に建てられたマラムレシュ地方(Maramures)、ドラゴミレシュティ(Doragomiresti)の見事な木造教会等がある。
住所:Sos.Kiseleff 28-30 9:00-19:00 月曜日休館
凱旋門 (Arcul de Triumf)
第 一次世界大戦における戦勝を記念して建てられたもので、最初1918年に建築されたときは木造でした。その後ペトレ・アントネスクという建築家により 1935年に現在の形になりました。南側の壁には、建設当時の王、フェルディナンド(1865年~1927年)とその妻、マリアの肖像が彫られています。
ルーマニア正教総本山(Biserica Patriarhiei)
ウニリ広場の南西角、ミ トロポリエの丘の上にある教会で1655年に領主ラドゥ・レオンによって建てられた。トゥルゴヴィシテからブカレストへの遷都に伴い、この教会はワ ラキア公国の本山となり、現在の総本山へと至っている。隣接する建物に本教会の総主教が住んでおり、坂の途中の鐘楼がアクセサリーとなっている。
ヘラストラウ公園(Parcul Herastrau)
市の北側ヘラストラウ湖のまわりにある市内最大規模の公園。緑豊かな187ヘクタールの敷地内には農村博物館や、各スポーツ施設、レストランやカフェがあり、夏場には湖上遊覧船も運航される。1999年5月には凱旋門に近い一角に日本庭園が開園し(当時滞在していたが知らなかった)、日ル文化交流協会より寄贈された200本のサクラの苗木が植えられた。
キセレフ通り(Sos Kiseleff)
Piata Victorieiから北部へ伸び凱旋門を通る大通り。この通り沿いの住宅街の一部は共産政権時には、党幹部用住宅だったが、現在は各国大使館や大使公邸が建ち並ぶ。パリのシャンゼリーゼのような美しい並木道である。。
リンク
- 社団法人ロシア東欧貿易会(ROTOBO)
- Skoda (チェコの車メーカー)
- 海外投融資情報財団
- スロヴァックモール